[パッテンライ]アニメーション出前上映

アニメーション「パッテンライ!!」は、旧文部省が支援して、八田の故郷である石川県金沢市に本社のある北國新聞社が創刊115周年を記念し出資して、虫プロダクション㈱が製作に当たったものであって、日本統治時代の台湾における土木技師として活躍する八田與一の様を、その業績と台湾地元民の交流を交えながら描いたものです。
「パッテンライ(八田來)」は台湾語であって「八田がやって来た!!」の意に当たり、当初、八田に敵意を抱いた台湾人民が、後に彼を尊敬し喜び招きくようになっていった様を表そうとしたもの。(「パッテンライ・ア」として終助詞:ア(ah)を入れるほうが正しいとされる。)夢のような導水計画に何度も悩まされた農民たちが、八田の車を見かけると「パッテンライ!!」叫び、戸を閉ざしたエピソードを基にしています。
この「パッテンライ!!」は徐々に意味合いを変遷させます。どうぞ注目してご覧ください。

パンフレットPDF

<ストーリー>
台湾の南西部に位置する嘉南平原は広大な不毛の大地でした。当時の台湾は日本占領下にありました。
我が国の総督府から派遣された土木技師:八田與一は、そこに住む農民の子: 徐英哲の家に訪れ、土地の一部を提供してほしいと告げます。この際、父親の日本人に対し口答え出来ない様に苛立った英哲は、八田に敵意をも抱きます。そして、八田という日本人の説明する事業の信ぴょう性を疑う地元農民たちは皆、彼に対し敵意を抱くようになります
この灌漑事業のための工事では多大なる労働力:マンパワーを要し、日本人労働者と台湾人労働者が集められました。このとき、営林署に在籍していた辻は、八田の計画に感銘を受けて辞職して八田の元で働こうと勉強を始めました。辻にはススムという息子がいました。そのススムは英哲と意気投合し、やがてお互いの夢を語り合うようになります。英哲は、八田のもつ土木技術と灌漑用水路を作ろうとする情熱と技術者魂に接するに従い次第に用水路の必要性を理解し、自らも土木技師になる夢を抱くようになります。(農民の子である徐英哲だけは、八田の土木に懸ける切実な想いに動かされていったのです。)
そんな中、突然に起きた爆発事故。作業員に多数の犠牲者が出て、辻も犠牲者に。八田は誰もが意気消沈する中、犠牲者の命を無駄としないよう工事続行へ向けて立ち上がります。
この様な有様、事象や時間経過があって、敵意をもって台湾の嘉南地域の人々から発せられていた「パッテンライ!!」(八田が来た!!)の言葉の響きは少しずつ変わっていったようです。10年後、八田の目指した灌漑事業に要される鳥山頭(うさんとう)ダムが完成し、渇ききった大地:嘉南平原に水が来る日がやってきました!

この劇中の人:八田與一は、今なお台湾で圧倒的な賛辞を贈られる生粋の我が国の土木技術者です。本編は、彼の人柄と技術者魂による実話を描いたヒーロー・アニメーション・ドラマですが、八田の不毛な嘉南平原に灌漑事業に必要とされるダムを建設しようとした土木技師の奮闘と苦悩を描いています。
監督は、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の石黒昇。

★八田さんを演じるのは『サイボーグ009』『美味しんぼ』他で主人公を演じた井上和彦さん。八田さんの妻・外代樹役には声優初挑戦の女優、一青妙さん。
そして、スタッフには『鉄腕アトム』の虫プロダクション、「銀河英雄伝説」シリーズなど数多くのアニメーション作品に生命を吹き込んだ石黒昇監督。
脚本は『半落ち』の田部俊行さん、音楽に『オーロラの下で』の小六禮次郎さんが担当しています。
そして、エンディングには一青窈さんのヒット曲『受け入れて』が新たな感慨をさそいます。
= 作品紹介 =
製作 「パッテンライ!!」製作委員会
(配給:北國新聞社・虫プロダクション㈱)
支援 旧文部省(現文部科学省)
製作者 飛田秀一、伊藤叡(虫プロダクション㈱)
監 督 石黒昇
プロデューサー 森井俊行
製 作 飛田秀一
脚 本 田部俊行
出演者 井上和彦、皆川純子、瀧本富士子、儀武ゆう子、後藤敦、一青妙
音 楽 小六禮次郎
上映時間1時間30分

【八田 與一について】 現字体:八田与一(はった よいち)、1886/2/2~1942/5/8
大正期から昭和初期にかけて活躍した水利技術者。日本統治時代の台湾において農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。
八田 與一は、石川県河北郡花園村(現金沢市今町)の出身であり、明治43年(1910年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した生粋の土木技術者である。日本統治時代の当時の台湾では、伝染病予防対策:特にマラリヤについて重心を採っており、八田は当初衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市等の各都市における上下水道整備を担当した。その後、発電・灌漑事業部門に移行従事して農業水利事業に関し大きく貢献するようになっていった。このとき、台湾はインフラ整備の真っ直中にあり、水利技術者の腕の見せ場が随所に見られた。例えば、当時施工中であった桃園大圳の水利工事について、八田は28歳で総責任者に就任し、工事を無事竣工させ事業を見事に成功させて高い評価を得ている。
また、八田は台湾南部の嘉南平野灌漑事業について現地踏査・調査して、15万haある田畑の恒久的旱魃危険を把握して構想し、民政長官下村海南の一任の下、烏山頭ダム(満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3)の建設計画を上申提案し、国会審議許諾を受けている。これは官田渓水を堰き止めて、建設隧道へ導水しダム貯水を図ろうとするものであっり、事業は受益者が官田渓埤圳組合(後の嘉南大圳組合)を結成して施行し、政府が総工費の1/2を賄うものとされた。このとき、八田は職位(国家公務員)を捨て、組合付技師となって大正9年(1920年)から昭和5年までの10年間、完成まで工事指揮をしている。
この後、八田は台湾総督府に復帰し勅任技師として産業計画策定等に従事し、昭和17年(1942年)WWⅡ最中に五島列島付近を航行中の船上で戦死しているが、我が国と台湾で今直顕彰される背景がある。これは、彼の偉業の様に増し、土木作業員の労働環境の適切化に尽力し、危険を顧みず現場を指揮し、事故慰霊事業等においては人種別け隔てないよう配慮できた人柄によるところが大きいと言われる。

八田與一氏像

サンゴ譚(湖)::烏山頭ダム